【ぽっぽアドベント2023】楽しい話じゃないけど。【9日目】

 ぽっぽアドベント2023!

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 9日目を担当する空尾です。思えばぽっぽアドベントには皆勤賞で参加させていただき、昨年末はぽっぽアドベントの代わりに一人でブログに記事を書いたりしていました。

 

 4年ないしは5年間を通じてあまり楽しい話は書けていなかったように思いますが、今年は輪をかけて楽しくない話なのでそういうタイトルにしています。題材は「物語」。自分の楽しくなさを文章にして人に読ませるのはどうなのか、と思いつつ、この年末、きっといろいろな思いを持っている人がいるだろうから、誰かのアンテナに引っかかればいいなあと思っています。

 前置きはこれくらいにして、以下本文です。

 

楽しい話じゃないけど。

 

 わたしは物語が好きだ。

 読むのも書くのも大好きで、ひらがなをマスターする前から自前の文字を作り出しながら物語を書いていた。三つ子の魂百まで、というやつなのか、三十を過ぎた今となっても細々と二次創作を続けている。物語を好きなわたしにとって、二次創作は二つの好きを味わえる場なのかもしれない。物語を読んで/観て、そこから湧いてきたものを自分の世界観で語り直す。本業は文章を書くことではないから、趣味の範囲でやれている(つまりいつ書くか、何のために書くかといった制約もない)のも、わたしにはちょうどよかった。物語を書くことは基本的に楽しいことだったし、物語の中に自分の問題意識を反映させることで、それまでモヤモヤとしていた何かを言語化できる面白さもあった。

「家父長制をぶっ壊すために二次創作をしています」

 長らくTwitter(X)のbio欄に掲げている言葉だ。この文言を気に入っているだけでなく、こうした言葉を掲げることで自分自身の姿勢をただす意味もあった。わたしは男性同士の恋愛関係を描くことが多いが、それを間違っても「禁断の愛」だとかただの萌えやエモの対象として消費したくないと思ったのだ。勿論わたしが書く物語が完璧でないことなど百も承知だったし(考証のいい加減さは「趣味だから」で済ませるずるさも持ち合わせている)、ある物語の登場人物の関係性に萌えやエモを見出しているのは紛れもない事実である(二次創作のスタートラインはいつでもそこだ)。それでもそこに描き出そうとしているのが、人間の生活であることを忘れたくなかった。たとえ架空のキャラクターであっても、いや、架空のキャラクターであればこそ、きちんと生きている者として扱いたいと思った。自分がこれまで接してきた小説や映画の中のキャラクターたちが、わたしにとって新たな世界を切り開いてくる他者であったように、わたしの二次創作の中のキャラクターも手触りのある存在として誰かのもとを訪れてほしい。そんなことをぼんやりと考えていた。

 物語を読み、そして書くということは、わたしにとって、世界を更新し続けること──新しい世界と出会い続けることなのだと思う。自分が過去にぽっぽアドベントに書いたことを読み返してみても、物語に翻弄され、焦がれ、そして常に生かされてきたことがよく伝わってくる。

 

 そもそも、広く人間社会は物語という虚構によって保たれている、と言うことも可能だろう(国家という巨大な物語!)。そこまで話を大きくせずとも、誰しもが多かれ少なかれ物語の中を生きていることは間違いない。

 だからこそ物語には危険も大きい。最近、ジョナサン・ゴットシャルの『ストーリーが世界を滅ぼす』(東洋経済新報社・2022年)という本を読んだ。正直、この本自体は自分にとって期待外れというか、指摘されている問題点は「まあそうだよね」か「その議論は雑ではないか」のどちらかで、「新しい世界」を見せてくれるものではなかった。著者はアメリカ在住だから、「分断」ということがしきりに言われる国の中で、物語と物語の強固なぶつかり合いの危うさを論じたいという志はわかるように思ったが、私の問題意識とはすれ違っていたのだろう。ただ、この本を読んだことで、わたしは自分の愛読書を再度読みたいと思うようになった。それが、岡真理の『記憶/物語』(岩波書店・2000年)だ。

 この本の内容をわたしはうまく要約できない。ここで論じられているのは、ある(暴力的な)出来事をいかに物語ることが可能か、ということだが、「それはこういうことである」と一文で示すことが困難であることを、何よりこの本は教えてくれているように思う。

 本に書かれていることの一部だけ紹介しよう。阪神淡路大震災の五年後の新聞記事に、震災で息子を亡くした女性の話が物語化されて載っていた。その手の記事を読んだことがある人ならおおよそ想像がつくだろう──女性の辛さをわかりやすく提示しながら、最後には希望が持てるように、まさしく物語のラストにふさわしい文章でもって話は閉じられる。こうした記事を読むことで、読み手は「遠い「他者」の出来事だと思っていたその〈出来事〉を、普遍性をもった出来事として理解する」(同P.83)。筆者はそこに、〈出来事〉を経験しなかった読み手にも理解可能な形で届けたいという記者の目論見と、「〈出来事〉を物語として領有したいという」読み手の「欲望」があるのではないか、と書く。

 

 〈出来事〉を物語として完結させる言葉.そう語ることで語り手は,〈出来事〉を物語として領有する.その物語を読むことで,読者もまた〈出来事〉を物語として領有する.未曾有の〈出来事〉,一瞬の出来事によってかけがえのない息子を奪われるという暴力的な〈出来事〉.だが,息子とどこかでつながっていることを,息子の永遠の命を,海に,雑巾に,日々実感する母.物語は終わり,読者は理解し,感動する.そこには、読む者を不安に陥れたり脅かすものは何もない.なぜなら,すべては理解可能なのだから.(中略)それは,封印なのだ.物語にぽっかりと口を開いたあの開口部,語り得ない〈出来事〉の余剰へと通じるあの穴──黄泉への道筋──を永遠に塞いでしまう封印.

──岡真理『記憶/物語』P.84

 

 わたしがこの本を読むのはこれで三度目だ。でも三度読んで三度ともに、わたしはハッとさせられる。ここで語られる語り手と読み手のある種の共犯関係に、あまりにも心あたりがあったから。そして自分が──物語を愛する自分が、いつまでもいつまでも〈出来事〉を領有したいという欲望にとりつかれていることを知らされるから。

 

 

 *

 

 

 つい先日のこと。わたしは知人の車に乗って、知人ら数人と駅へと向かっていた。そこで繰り広げられていた会話が、どういう流れだったか、イスラエルを支援する企業へのボイコットの話にまで及んだ。

 

「僕たちは、そんな遠い国の出来事にまで心を痛めないといけないんでしょうか」

 

 会話に参加していた一人が、そんなことを口にした。

 わたしは咄嗟に何か言おうとしたが、わたしが何かしら語気強く反論しようとするのを察したのだろうか、「そういえば……」と別の一人が、全く違う話題を出して話を逸らした。

 知人らと別れた後の帰り道、わたしはあの時なんと言えばよかったのだろうとすぐに考え始めた。はじめは、知人の倫理観を責めたい気持ちが強かった。ガザで何が起きているのか知ってるんでしょう、よくそんなことが言えたもんですね! でも自分がそんな風に面と向かって相手を責められないことはわかっていた。相手との関係性もあるし、そもそもわたしはその言葉の機微を完全に把握していたわけでもないだろうから、わたしが記憶するニュアンスとその人の言いたかったことがズレている可能性もある。倫理を問題にするならばどういう意味でそんなことを口にしたのか、もっと質問を重ねるべきだったのだろう。

 そんなことを考えているとあっという間に家に着いてしまった。そこでわたしはそのことについて考えるのをやめ、身の回りの些事に没頭し、今こうして文章に書き起こすまでその問題を保留にしていたことすら忘れている。

 

 そしてこれを書いている今、あることにはたと気付かされる。こんな風にその人の発言を考えたり、忘れたり、また思い出して考えたりできること。これがわたしの「特権」というやつなのだ、と。

 

 「特権」ということばを背負い込むのは、正直なところ気が重い。自分が現在得ている地位・安全・快適さなどが、誰かを踏みつけて成り立つものなのだ、などと誰だって思いたくはない。でも最近Twitter(X)のTLを見ていると、否が応でも考えずにはいられなくなる。誰かの推しの話や今日食べた美味しいものの写真の合間に流れてくる、傷つけられた子ども、項垂れる女性、服を脱がされてどこかへと連れて行かれる男性たち。あまりにグロテスクなコントラストである、などと賢しらに言うことは決してできない。わたしは「遠く」の傍観者ではなく、この世界の一構成員だ。グローバル化の恩恵に多分に与って、衣食住に困らず、ときに推しを追いかけ、親しい人たちと笑い合える暮らしを享受している。TLを構成する要素はわたしの生活の写し鏡でもある。もしも自分を安全圏の傍観者であると思っているのならば、それはわたしが自分自身をそうなるように仕向けているからに他ならない。そしていつでも傍観者の位置に逃げ込めるのが、何よりの私の「特権」なのである。

 もしも知人に、「遠い国の出来事」に心を痛めてはいるのかと問われたら、痛めている、とすぐに答えることはできただろう。新聞記事を読んだりネットの投稿を見たりするとき、全くの無感動に流すことなどできやしない。でもその痛みは、「遠い国の出来事」が、自分にとっても「理解可能」であることを確認するためだけの作業だったのではないか? 小さい子どもの遺体に顔を寄せる男性、弟の遺体に声をかける少年、我が子の亡骸を強く抱きしめる女性。わたしは自分の姪や甥のことなどを思い出し、その写真に涙さえ零しそうになる。でもわたしが可愛がる姪や甥は、無差別な爆撃で死んではいない。母や父を亡くして途方に暮れてもいない。わたしも、わたしの家族も、「天井のない監獄」と呼ばれる場所で生活したことはない。写真に写る人々が経験している〈出来事〉を、わたしが「わかる」ことなど絶対にないのだ。わたしはわたしが勝手に作り上げた物語を、「遠い国の出来事」として、心を痛めたいときにだけ取り出してみては、悲しみという愉悦に浸っているだけではないのか?

 こうして書き連ねながら、この自己批判もまた自己愛の裏返しのような気がしてくるから厄介だ。実際、その通りなのかもしれない。わたしは今日も明日も仕事に行き、それなりにやりがいも感じ、時々は友人らと会って楽しく会話もするだろう。この文章が、自分の良心の呵責をやり過ごすためのエクスキューズと受け取られても仕方ない。でも、「いま自分にできることをやろう」という紋切り型の答えに、早々に飛びつくことはしたくなかった。

 

 わたしは物語が好きだ。読むのも書くのも大好きだ。物語はずっと、わたしの安全圏でもあった。わたしが二次創作を好きなのは、原作の中ではままならなかったものたちを、“あるべき”ところへ押し込めたいという欲望の表れであったのかもしれない。キャラクターを人間として描きたいと言いながら、ある種の人間の在り方や〈出来事〉を、自分の「理解可能」なものに落としこもうとしていたのかもしれない。そして実際の悲劇さえも、小説を読むように映画を観るように二次創作をするように、「理解可能」な物語として「領有」しようとしていたのだとしたら。

 いや、勿論物語にはそんな負の側面ばかりではないし、二次創作には大きな可能性が潜んでいる、そのことはわたしもよくよく知っている。でも物語を愛し続けるためには、物語を愛する自分に──自分の理解には及ばない他者や〈出来事〉(ときに自分自身も)を「理解可能」なものとしてしまおうとするその感覚に──言い換えるなら大いなる「特権」に、メスを入れ続けなければならない。そう、思う(もしくは、そう、思おうと苦心している)。

 知人があの言葉を口にしたとき、たぶんわたしは動揺していた。知人の倫理観などという批判の矛先を真っ先に探したのも、早く自分の考えの落ち着く先を見つけて安心したかったからだ。でもわたしはその問いに触れたときの動揺の中にこそ、身を置き続けなければならなかったのだろう。わたしにとっての真に新しい世界は、自分自身の「特権」性を見直す契機は、その動揺の中にこそあった。

 

 この楽しくない話に結論などないし、結論などとまとめあげてしまったら、ここまで自分が綴ってきたことを裏切ることにもなるだろう。勿論、現在進行形で「ジェノサイド」というとてつもない暴力に晒されている人々に向けてできることを、目に見える形でも続けていきたい。寄付や関係各所への意見送付もそうだが、体調不良と仕事を言い訳にして見送っていたデモへも参加しようと、この文章を書きながら改めて思った(文章を書いて自分の考えを「理解可能」にすることの利点は、こういうところにある)。

 わたしにとってのデモは、声を上げる場というだけでなく、他者の声の中に身を置くことで、何事もわかりやすく理解したがる臆病な自分を動揺させる場としての意味も持っている。SNSや新聞記事でニュースを追うだけのわたしが、せめても「語り得ない〈出来事〉の余剰へと通じるあの穴」を身勝手に塞がないようにするために、自分の世界が思いがけず更新されていくことに待ったをかけないように、「いま自分にできることをやろう」。そんなことを、いま、考えている。

 

 2023年は、人類にとって最悪の年として記憶されるかもしれない。そう記憶される方が、こんな暴力が見過ごされる世界よりもずっといいとすら思う。でも、最悪の〈出来事〉を見過ごした一人にはなりたくない。後になって全く他人事の悲劇の物語として、この年の〈出来事〉を涙ながらに振り返る人間にもなりたくない。

 わたしは物語を好きでいたい。〈出来事〉の余剰を描き得るのもまた物語であることを知っているから。そうした物語がわたしの中の旧い「世界を滅ぼ」していくと信じているから。

 

2023.12.9

空尾

 

私が寄付先に選んだ機関のリンクを貼っておきます。

www.securite.jp

 

www.msf.or.jp

 

 

ぽっぽアドベント2023はまだまだ続きます。明日10日はナブさんです!

放送大学卒業見込みエントリ」というテーマ、とても気になる…!