【2022年まとめ】韓国文学を読んで~取るに足りなさに抗う文学~

取るに足りなさに抗う文学

 

 あの人たちは何に抗っているのだ。取るに足りなさに 取るに足りなさに。

             ──ファン・ジョンウン『ディディの傘』「d」より

 

 2022年、47冊の本を読んだ。その内21冊が韓国文学だった。近年、韓国文学が一種のブームとなっている。その端緒といえるのは『82年生まれ、キム・ジヨン』だろうが、ちょうどこの小説が日本で話題になっていた頃、私はハン・ガンの『少年が来る』を読んで韓国文学をよく読むようになった。

 もともと海外文学が好きだった。中学時代はアガサ・クリスティー作品を愛読し、高校生になってからはドストエフスキー作品にのめり込んだ。大学時代にようやく日本文学の面白さにも気づき始めたが、それでもやはり読む本の半数は翻訳ものだったし、その傾向は働き始めてからも変わっていない。トルストイマーガレット・アトウッドカズオ・イシグロ……。そう、時代は異なるにしても、私が読むのは専ら西洋の文学だった。勿論「西洋」なんて言葉一つで、これらの作家の作品を一括りにはできないが、少なくとも日本以外のアジアの文学に触れた経験が、私にはほとんどなかった。

 

 韓国の作家による作品の、何が今こんなにも私を引きつけるのか。まず私は、文体にその理由を見た。詩的とでも言えばいいのか、これまで読んだどの国の文学とも違う息遣いが聞こえ、気づけば同じように読者である私も呼吸をしていた。勿論、すべての作品が共通のリズムを奏でているわけではない。ただ、私が特に引きつけられる作品たちは、その根底で互いの旋律を響かせ合っているような共通性があるように思えたのだ。

 かつての同僚に、「海外文学は翻訳だから、作品の本当のところを読みとれないのではないか」というようなことを言われたことがある。「本当のところ」というのをどう定めるのかは難しいが(「作者の意図」とでも言うのなら、私たちは一人として──作者自身であっても!──作品に潜む「作者の意図」など読みとれはしない)、その人の言いたいことも理解はできた。つまり、日本語話者である私が日本語で書かれた作品を読むのとは違い、作品と私の間に翻訳者というフィルターが一枚多く介在することをその人は指摘していたのだろう。そのフィルターが、読み手である私を「本当のところ」から隔ててしまう、と。

 私が翻訳された韓国文学に感じる呼吸のリズムは、韓国語そのもののリズムではない。詩性を強く漂わせるそれらの作品について更に読み深めようと思えば、原文にあたる必要性があることも痛感している(私は机の左側に積まれた“未使用”の韓国語の参考書を見る)。私が心地よく思っているのは、あくまで翻訳というフィルターを通した韓国文学の呼吸である。

 

 私が韓国文学に感じるもう一つの大きな魅力、それが歴史的、社会的、政治的視野の広さだ。これは韓国映画についてもよく言われることだが、エンタメ性と骨太の社会性が少しも矛盾することなく共存している。私は、文学においてエンタメ性の強い作品が好きというわけではないが(エンターテインメントに寄ると、どうしても何かをステレオタイプ化して語らねばならないので)、韓国文学はどの作品においても歴史や社会や政治から離れられないという自覚が強く感じられる。「私」が立っている「いま・ここ」が、どんな歴史の変遷の上で、どんな他者との関係性の中で、どんな権力構造によって成り立っているのか、それを冷静に見極めようとする視線が、詩的でありながらもある緊張感を孕んだ語りを生んでいるように思う。その一つの極に達したのが先に挙げた『少年が来る』だが(こんなにも個別具体的でこんなにも普遍性を持ちこんなにも詩的な物語を、私はほかに知らない)、濃淡はあれど多くの作品がその力を持っている。そして今年私が最も感銘を受けたのが、ファン・ジョンウンの『ディディの傘』だった。

 『ディディの傘』は、「d」と「何も言う必要がない」という二作品からなる。それぞれの作品の背景には、「セウォル号沈没事故」と「キャンドル革命」という韓国社会を大きく揺るがした事件が横たわっている(この二つの出来事が地続きであるように、二つの作品も連作として読める)。「d」では、不慮の事故で恋人ddを亡くしたdの日々が描かれる。苛烈な競争社会の下層を孤独に生きるdは、「セウォル号沈没事故」の遺族たちを見かける。初め多くの同情を集めた遺族たちは、後に苛烈な「ヘイト」の対象ともなっていた。そんな遺族たちの姿を目撃したdは、仕事で知り合ったヨ・ソニョからもらったオーディオ機器の、そこに取り付けられた真空管を見て彼らの姿を思い出す。

 

 (前略)dはまた、世宗大路の交差点で感じた真空のことを考え、突然流れが消えたあの空間と、その向こうの、あの場所にとどまっている人々について考えた。彼らとdには同じところがほとんどなかった。他の場所、他の人生、他の死を経験した人たち。彼らは愛する者を失い、僕も恋人をなくした。彼らが戦っているということをdは考えた。あの人たちは何に抗っているのだ。取るに足りなさに 取るに足りなさに。

 

 この文章を読んだとき、私は自分が韓国文学を読む理由はこれだ、と思った。自分が立つその場所がどのようなものの上に成り立っているのか自覚し、降りかかってくる権力を注視し、「取るに足りなさ」に抗うこと。私は息を詰めて、もう一度その文章を読む。そのリズムが私の胸を叩く。私はそのとき、自分にとっての「本当のところ」と出会っているような気がする。

 私とこの小説には距離がある。私は「セウォル号沈没事故」を小説やエッセイや日本のニュースの中でしか知らず、私はこれを翻訳された日本語で読んでいる。でも、その距離が私を「本当のところ」に導いていく。「他の場所、他の人生、他の死を経験した人たち」。私は事故で亡くなった身近な人について思いを馳せ、今も「取るに足りない」存在として扱われるたくさんの人々(そこにはときに私自身のことも含まれる)のことを考える。私が日常使わない日本語のリズム、私から物理的に遠く離れた人々、それらと出会うことで私は私がそうだと思いこんでいる世界の、別の側面を知っていく。私はこの作品の、自分が生きている世界の「本当のところ」をすべて知ることは叶わない。でも自分が立つ「いま・ここ」を見る別の視点へ、日本語に訳された韓国文学を通して手を伸ばすことができるのだ。

 「d」は印象的な一文で終わる。真空管に手を伸ばすdに、ヨ・ソニョが言う。「それはとても熱いのだから、気をつけろ、と」。その熱が私をハッとさせる。dの息遣いを身近に感じる。それは感情移入ということとは少し違う。私はdとは全く違う人間だ。でも同時に、私たちはその熱を感じ取れるくらいにはひどく似通ってもいる。違うことと同じこと、その両方が私たちを繋いでいる。そして私たちが感じるたとえわずかであってもそこに確かに存在する繋がりこそが、「取るに足りなさ」に抗う術なのだ。

 2023年も私は文学を読み続けるだろう。「取るに足りなさ」に抗うために。

 

2022年に読んだ韓国文学(読了順)★特に印象深かったもの

チョン・ミョングァン/斎藤真理子訳『鯨』

キム・ヘジン/古川綾子訳『娘について』

チョン・セラン/すんみ訳『屋上で会いましょう』

チョ・ナムジュ/矢島曉子訳『ミカンの味』

ソン・ホンギュ/橋本智保訳『イスラーム精肉店』★

ミン・ジヒョン/加藤慧訳『僕の狂ったフェミ彼女』

パク・ミンギュ/斎藤真理子訳『三美スーパースターズ最後のファンクラブ』★

チョン・セラン/斎藤真理子訳『フィフティ・ピープル』

イ・グミ/神谷丹路訳『そこに私が行ってもいいですか?』

キム・チョヨプ/カン・パンファ、ユン・ジヨン訳『わたしたちが光の速さで進めないなら』

パク・ソルメ/斎藤真理子訳『もう死んでいる十二人の女たちと』★

チャン・ガンミョン/吉良佳奈江訳『韓国が嫌いで』

イ・ジン/岡裕美訳『ギター・ブギー・シャッフル』

チャン・ガンミョン/小西直子訳『我らが願いは戦争』

チョン・セラン/吉川凪訳『アンダー、サンダー、テンダー』★

パク・ミンギュ/斎藤真理子訳『短編集ダブル サイドA』

チェ・ウニョン/古川綾子訳『わたしに無害なひと』★

ファン・ジョンウン/斎藤真理子訳『年年歳歳』★

ファン・ジョンウン/斎藤真理子訳『ディディの傘』★

ソン・ウォンピョン/矢島曉子訳『アーモンド』

パク・ミンギュ/斎藤真理子訳『短編集ダブル サイドB』

 

韓国文学関連書

キム・エラン他/矢島曉子訳『目の眩んだ者たちの国家』★

斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』★